別に病んでるわけではないのですが。 | メロンパンブログ

別に病んでるわけではないのですが。

人って本当に変われるんでしょうか?

 

 

恋人に、大人になれと言われた時。

上司に、大人になれと言われた時。

 

 

もちろんこれらの言葉に悪意などは一切感じられません。

むしろ好意なものだと思っています。

自分への期待の表れであり、発奮材料にもなるものでしょう。

 

しかし、だからといって全てが全て期待に応えられるものですか?

簡単に、「はい」と返事をすればそこからガラっと変われますか?

 

僕は間違いなく人は変われないものだと思います。

ちょっとしたクセなどはどうにでもなりなすが、こと本質的に見た場合、これはほとんど変われないと言っても言い過ぎではない気がします。

 

だからと言って、努力を放棄する言い訳にはなりません。

 

ではどうしたらいいのか?

僕が思うのは、人は変わろうとするとき、『変わる』のではなく『代わる』ことになるのではないかと。

 

期待に応えようと足掻くものの、結局何をどう変えればいいのかなんて分からないし、万一自分では変われたと思ってみても、何がどう変わったのかなんて尚更分からない。漠然としているんです。

 

だから、他人に見せる自分を創る。

いわば自分の代役を創りあげる。

パーマンでいうところのコピーロボット的存在、は、ちょっと違った。

 

相手が望む姿を投影した自分を演じる。そうすることで、相手は変わってくれたと満足。

自分にとっても今まで欠けていた部分が補われた『自分』を、要は変化を認知出来る。

 

 

だがしかし、問題が一つ。

 

『代わる』為には強い芯が必要となってくるということ。

 

他人に見せる自分を演じきれなくなった時、そこで芯が折れてしまった時、責める対象のいないその悩みの矛先は自分へと帰ってきて、弱い心を抉り取る。

変わることも代わることも出来ないということへの自己嫌悪が始まってしまう。

自分はダメな人間だ、期待に応えることも出来ない。そんな思いが駆け巡る。

 

これが怖くて、期待から逃げ出す人もいるでしょう。一種、変わることへの不安の自己防衛といえるかもしれません。それはそれで一つの強さといえるのかもしれません。

また、芯が折れずに自分を演じきることが出来る人もいるでしょう。そんな人も強いといえるのかもしれません。

ただ、僕が一番強いと思うのは、例え芯が折れてもそこから這い上がってきて新しい芯を作ることが出来る人だと思います。これは、自分がそうありたいという願望も含んだ意見であって、演じきる自信も無ければ、逃げ出す覚悟もない中途半端な自分への言い訳ともとれますが。

 

結局は、強い人、そんな人に憧れる僕には、強さという概念が一概に捉えられるものではないと思い込むことが、唯一の光明なんです。

 

 

ケイ